備忘録

たまに思い出したいこと

処女作(First Book)を書き終えて

 つい先日、数年にわたって書いてきた物語を完結させることができた。今は若干の燃え尽き症候群気味になりながらも、静かな達成感を抱きつつ、何よりほっとしている。一応のこと電子書籍として形にしたし、幾つかのWEBサイトにも載せておいたので、これでもう自分が事故で突然死んだりしても物語が消えて無くなったりはしない。無事に作者としての責任を果たせたことに安堵している。

 

 自分で実際に物語というものを書いてみて、色々と考えたり感じたことを覚えているうちに書き残しておきたい。実のところ、もう書いていた時のことをよくは思い出せない。執筆中はあんなにヒーヒー言いながら書いていたはずなのに、いざ終わってみるとこんなものだ。人は過去を美化するか、単に忘れ去る。だから記録を残すことは大事なのだと思う。物語を書いてきた中で沸き起こった感情や考えにはまだ整理の付いていないものも多々あるが、その現在地を記録しておくという意味で、また今まで自分がしてきたことを総括する意味でも、ここに一度とりとめのない所感を残しておこうと思う。

 

 

 

 

なぜこの物語を書いたか

 どうして物語なんて書いてみようと思ったのかと振り返れば、別に大した理由などはなく、ただ書いてみたかったからだと思う。この物語の原型が、夜寝る前に頭の中で思い浮かべていた空想から来てるのは確かだ。その中でいくつもシーンが出来上がっていくうちに、段々と全てを把握してるのが大変になってきて、どうせなら繋げて物語にしてみようかと、そんなところだったと思う。だから「夢」というものを描いたこの物語もまたある意味で、眠れぬ夜に自分が見ていた夢だったのかもしれない。

 小説にしたことにも大きな意味はない。自分は読書家でも文学好きでもないし、紙で読んだことのある小説なんて(星新一ショートショートを除いたら)両手足の指で数えられる程しかないんじゃないかと思う。物語の性質上、映画やビデオゲーム、漫画などでの表現には適さないこと、更には自分一人で終わりまで完成させられるということで、小説という形での語りに自然と行き着いた。

 こう書くとなんだか楽な方に流れたようで消極的選択に聞こえるが、改めてこれを書き上げてみて、やはりこの物語の世界は文章でしか表現できないものだったろうなと思う。

 それに自分が人生で一番やりたかったことは、これだったのかもしれないという発見もあった。やはり、とにかく何でもやってみるべきだと思う。漫画を描くでも、ゲーム制作でもなんでもいい。試しにやってみて、いつの間にか夢中になり、自分の心を強く掴み離さなくなる。そんな活動に出会えたら何よりの幸運だ。

 創作活動に関心を持ち始めた頃から、自分は「絵を描く」というのも主な活動の一つにしたいと思ってきた。小説を書くにしても、何か他の形で創作するにしても絵を描けて損は無い。画力を身につけるというのは、自分の目的に照らして理屈で考えればこの上なく合理的な行動選択だったのだが、だが実際描いてみると続かない。熱意が沸いてこない。毎日、自然とペンを持とうとはしないのだ。意識を描くことに向け、意識的にやろうと思わなければ、やらない。これはきっと、自分は絵を描くことがそれほど好きではないのだと思う。絵を描くことは趣味としては良いもので、確かに描き始めたら時間を忘れ夢中になれるが、でもそれを描きながら、この「絵を描くという行為」をもっともっと追求していきたい、どこまでも奥深くまで探求していきたい、とまでは思わない。

 物語創作にはそれを感じる。誰かに言われなくても自然とそのことを考えてしまう。時にはもういい加減に忘れ別のことで気晴らししたいと思う時にまで、そのことが頭から離れない。そういう活動こそが、本当に自分が人生を賭けてするべきことなんじゃないかと思ったりする。少なくとも、今はそう思っている。「遊びをせんとや生まれけん」の「遊び」が、自分にとってはこれなのではないかという気がしている。

 

 これを書いている最中、クラウドノートを漁っていたら2017年頃の日付で「本書を書く意味」という題のメモを発見したのでちょっと引用しておく。

生きていく中で迷った時に道標となり、自分にとって大切なことを思い出すため。アンサングという寓話を通じて、人生の課題に思索を巡らす。謂わば、自分にとっての聖書のような役割を果たすものとしてこの物語を作る。

  随分と仰々しい動機だ...笑

 そこまでの価値あるものを作れたかどうかは自信がないが、確かにこの「聖書」というのは一つイメージとして自分の中にあったと思う。自分はクリスチャンやジューイッシュではないけれど、聖書というとハンドブックのようにしていつも傍らに置いてあって、何かの折に読み返しては、今の自分の課題と向き合いながら色々と考えたりする、そんなイメージを持っている。だから自分もこの物語の中に色んな主題を置いて、折に触れ読み返せるように本の形で残したいという思いがあった。結局は文字数の関係でかなりの大部になってしまい、紙の書籍として残すのは携帯性の問題があると言うことで電子書籍の形で残そうと決めたけれど。そういえば章分けがかなり細かくなっているのも、読み返すときに検索しやすいようにする意味があったりした。

 37万字近い文字数のお話なので中々通読するのは大変な物語だが、本来はこんな風にたまに拾い読みをして楽しもうとしていたものだった。これからも自分で、そんな風にして時々読んでいくだろうと思う。とはいえ過去のメモに書いてあったような、その中に救いや答えを求めるようなことはしないが、たまに旧友と再会して思い出を振り返るように懐かしく読み返すだろう。

 

 長々と書いて最後にひっくり返すようで申し訳ないが、「物語を書く意味」や「物語に込めた意味」なんてのは、どうでもいいとまでは言わないが、さして重要でもないと思う。物語にどんな意味を持たせるか、持たせたいか、初めは色々考えたりする。どうせ大変な思いをして書くのなら、素晴らしく価値あるものを作りたいと思うのは当然のこと。けれども書いていくうちに、それと本気で向き合ったのならば、段々と物語は自分の手を離れて独立した存在へと変わっていき、最後は自分が居なくてもひとり立ちすることの出来る作品として完成する。その頃になって初めて、自分が今まで書いてきた物語はこんな意味を持っていたのかと気付いたりする。自分が持たせようとした意味と、実際に物語が持つことになる意味が同じになるとは限らない、ということを今回身に沁みて学んだ。

 少し、子育てに似てるのかもしれないと思ったりする。親は子供を立派に育ててやりたくて、そして幸せにしてやりたくて色々と頑張るのだけれど、必ずしも自分の望んだようには子どもは育たない。その子が伸びたい方向へすくすくと伸ばしてやるのが親としての役割であろうし、結局はその方が子にとっては幸せなんだろう。自分もこの物語を書く中で、最初のうちは初めに書き起こしたストーリー・プロットを忠実に文章に起こして再現していこうと考えていたが、段々と物語や作中人物と向き合っているうちに、この物語が進む方向はそちらでないのではと思い始めた。そして結局、最初とは正反対とも言えるような結末に落ち着くことになった。最初の計画からは随分遠い所へ行き着いてしまったが、それで良いんだろうと思う。むしろその方が良かったんだろう。そのお陰で、自分はこの物語と共に知らない世界へと旅することができた。親が子どもを育てるだけではない、子もまた親を育ててくれる。それが確かな実感として今この心にある。

 何故こんな物語を書いたのか、と聞かれれば、さっき書いたようなしょうもない理由を挙げる他ない。けれど、この物語を書いて良かったと思うか、と聞かれたら、それはもう間違いなく良かったと今なら自信を持って答えられる。意味は決めるものじゃなく、旅する中で自然と気付いていくものだ。そのことに気付けただけでも、こうして旅をした価値があった。

 

物語を作るということ

 物語を作るとは、一体どういうことなのか。あまりにも深すぎる難題で、今もまだ答えは見つからないし、これからも延々と考え続けていくだろう。

 これに関して今自分の中にある思いの一つは、そして物語を書いてきた中で確かに感じたことは、「この物語は私の所有物ではない」ということだ。著作権だとかはひとまず置いておき、あくまでも物語と作者の関係としての話だ。初めは自分が一からこの物語、ひいては物語世界を創り上げていると錯覚していた。しかしすぐにそうじゃないと思い知らされた。作者というのは物語を作るにおいて、全知全能の造物主として何でも出来るわけではない。確かにそのペンとタイピングする指を使い文章上では何でも出来るだろう。たった一行で世界を滅ぼすことも出来る。しかしそれは、物語ではない。単なる空想の出来事を羅列した文章でしかない。そんなやり方で想像の世界での自由を謳歌できると思ったら大間違いで、そこに広がっているのは魂のない言葉の投棄場でしかない。

 物語は様々な要素によってその存在を制限されている。まずその作者によって、次に物語の表現媒体によって、そして何より、その物語が物語られる世界そのものによって(他にも読者というのがあるがここでは一旦置いておく)。作者はこの関係の中の一要素でしかなく、作者が唯一絶対の存在などということは全くない。

 作者が絶対ではないと書いたが、作者が重要なのも間違いない。作者は物語の語り手(そのものじゃないがそれに近い存在)として、物語を作者以外の第三者が観られる形あるものにすることが出来る唯一の存在であると同時に、物語世界を構築する存在でもある。物語世界は、作者の中に流れ込んできたいくつもの別世界が混ぜ合わさり出来上がった新しい世界だ。作者とはその意味で土壌であり、海だと言える。そうして自分の中で混ぜ合わさり、出来上がった物語世界での出来事をどう物語るか、というのが作者の語り手としての仕事になる。

 この物語世界の構築という点に限って、確かに作者は造物主、神に近い存在だと言えるかもしれない。ただし、それは物語世界の中に生きる人々から見ての話だ。それは自分が彼らにとってはそのような存在であることを自覚して、少しでも良い物語世界となるよう努力するための、己を戒める矜持として持つべき認識であって、彼らを何でも思い通りに出来るという傲慢さとは全く違う。そのような傲慢の下で作られた物語では、きっと登場人物たちは魂の無い駒のようにされ、作者や読者の欲望を満たすためだけにあちらこちらへ動かされる。読者のストレスや欲求を解消するための娯楽としてはそれでいいのかもしれない。けれど私自身は、そんな物語ならばわざわざ自分で作る必要はないと思う。自分は究極的には、物語世界のために物語を書いているのだと思う。だから結果として、その物語が娯楽にはなり得なかったとしても一向に構わない。

 物語世界の作り手として、物語の語り手として、作者には様々な技術や努力が要求される。物語世界は自分の中で混ぜ合わさり出来るとは言っても、勝手に出来上がってくれたりはせず、必要に応じて作者自身で世界のディテールを埋める建材を探してくる必要がある。物語も箇条書きのストーリーやプロットとしては簡単に姿を表してくれる一方で、それをどんな言葉でどう物語ればよいかは教えてくれない。作者自身が常に物語に耳を澄ましながら、置くべき正しい言葉を探し続けなければならない。

 よく物語世界がしっかりと出来上がれば言葉も自然に出てくるなんて言うが、それは半分しか正しくないと思う。正確には、確かに息づく物語世界があればそこにあるべき言葉は自然に現れる。しかしそれが自分に「視えなければ」その言葉は掴まえられず、雰囲気だけ似た別の言葉で置換するしかない。それでも物語の大意はそれほど変わらないかもしれない、けれど美しさからは遠のく。物語は語り手に、正しく物語ることだけでなく、美しく物語ることも求めてくる。だから作者はここまで慎重に注意深く言葉を探そうとして、たった一文に一月悩んだりする。

 もし物語が作者の所有物だったらここまで苦労する必要があるだろうか。むしろ物語にとって作者は、自分の人生を捧げながら馬車馬のように働く奴隷にこそ近いのではないかとさえ思えてくる。作者は物語(世界)にとって、神でもあり奴隷でもある。かといって支配するわけでもなく、服従しているわけでもない。ただ自分の意思をもって、物語が完成するまでひたすらに努力し続け、共に旅をして、完成後はひとり立ちしていく物語を見送る。それが物語を作るということで、物語の作者としての営みなのだ。と、今は思う。この点でもやっぱり、子どもを育てる親のようだと少し感じたりする。

 こう書いていると、自分でも物語創作なんて何が楽しいのかと思えてくる。小説を書くのが楽しくてしょうがないという人を見かけるが、振り返ってみても、楽しい時間よりは遥かに辛い時間の方が多かったようにしか思えない。だから他人様には絶対に、「創作って楽しいよ」などと軽はずみにお勧めしたりはしない。本気で物語を作ることに向き合うと、今までのように素朴に物語を楽しむという立場では居られなくなる。映画「セッション」のラストの主人公の様に、芸術に魂を捧げた代償として、ある意味で彼岸に渡ってしまう。だからそんな無責任なことは決してしないが、しかしもし過去の自分に会いに行けるとするなら、一日でも早く始めろと言ってやりたい。

 

作品を書き上げてみての反省

 反省しかない。と書き出したくなるほどには反省だらけだが、これが生まれて初めて書いた物語だとすれば、割と悪くない出来なのではと言い訳したくなる気持ちも少しある。けれど、物語にとってはそれが作者の処女作だろうと100作目だろうと関係ない。またいつか書き出す日に備えて、今回の執筆の中で生じた問題点を洗い出しておく。

語彙不足

 まず何よりも、語彙の貧困。言葉を知らないという致命的な問題。物語を文章で物語る以上、言葉を知らなくては何も始まらない。絵の具を3色しか持っていない画家みたいなものだ。混ぜれば少しは種類が作れるが世界を描くには到底足りない。この克服のためにはもっと沢山読書などをして語彙を増やす必要があるが、ただ言葉を知識として蓄えるだけでは足りないと思う。頭の中に借り物のような言葉を揃えておくのではなく、確かに自分のものとなるまで言葉を咀嚼し吸収しなければならない。そうでないと、その言葉を世界を物語るのには使えないということが今回でよく分かった。ただどこからか響きの良い言葉を字数を埋めるための助っ人のようにして借りてくるだけでは、見てくれだけ良いハリボテのような文章が出来上がるだけだ。自分が自在に操れる言葉だけで文章を紡がなければ、文章は統一感を失って単語の寄せ集めになってしまう。だから一語でも多く、言葉を自分のものにしておかなければならないと痛感した。そのためには、やはり文章で表現された物語を沢山読んでみるのが良いだろうと思う。そしてその中でどんな言葉がどんな場所で、何を表現しようとして使われているのか。そういったことを注意深く観察して、言葉の効能というものをこれまで以上に深く洞察していく必要があると思う。

叙情描写と叙事描写

 語彙との関係で言うと、恐らくあの作品を読んだ人は簡単な言葉ばかり使われていると感じることだろうと思う。それが作者の語彙の貧困によるものか、それとも意図的なものかを読者が判別するのは難しいだろうが、書いていた作者から言い訳させて頂くと、その両方である。先ほど書いたような理由もあり、「アンサング」では自分の中にある言葉だけで書こうという意図があった。それは処女作であることも少し関係していて、この作品が自分の原風景として、これから創作をしていく上での起点になるように、原点として作りたいという思いがあったからで、その理由で執筆期間中はなるべく他の人が書いた物語も読まないように心がけ(他の人の文章や思想が流れ込んでくるのを避けるため)、小説の書き方みたいなノウハウ情報も一切仕入れずに、ただ独力のみで書き上げるということにやたらと拘っていた。その唯一の例外が作中のジル・ド・レの章で、あそこだけは過剰なナルシシズムを表現するために敢えて沢山綺麗な言葉を借りてきた。むしろ借り物の言葉の浮いた感じをこそあそこでは出したかった。それが上手くいったかどうかは分からない。

 他にはもちろん審美的な部分もある。書いているうちに気付いてきたことだが、自分は叙情的に描写するよりも、叙事的に描写することの方にこそ物語としての美しさを感じるようだと分かってきた。つまり人物の内心を赤裸々に吐露しながら心情描写をしていくよりも、その本心の顕れとしての表情や行為(台詞)の中に人物の心情を描き出そうとすることの方が好きらしい。

 これはほとんど好みの問題で、物語の性質により適した手法も変わっていくのでどれが正しいということはない。現に自分も章によっては叙情的な描写を心がけ、逆に主観の章であっても効果の観点から叙事的に書いて本心を見せないということもやってみたりした。

 ただ、叙事的に書こうと心がけるにあたって、華美な修飾語の乱発が描写の邪魔になりやすいのは確かだ。これは書いてみての実感として感じる。ここで文章を見栄え良く見せたいという誘惑に駆られて、その場面では過剰なほどにキレイな修飾語を置いてしまうと、叙事的に心情を表現するという手法の奥ゆかしさや余韻というものが消し飛んでしまう。結局この時の作者というのは、読者に対して見栄を張るために作中人物の心情を無視した派手な言葉を置いているに過ぎない。特にこの作品のような極めて繊細な心の機微を描き出さなければいけなかった物語においては、単に華麗な文章を書けばいいということではないということを気付かされたし、書いている中で常に課題でもあった。

物語の長さ

 他の反省点としては、物語の文字数としてのボリュームが想定よりも大きくなりすぎたことがある。書き始めた頃の感覚としては、恐らく20万字程度には収まると思っていたが、最終的に36万6千字近くになった。これは描写するエピソードが増えていったということではなくて(それも多少はあるが)、自分が今回選んだ描写の手法、台詞文を主にした対話体小説では地文で主に語る小説よりもどうしても字数が膨らんでしまうことを見落としていた(そもそも知らなかった)ことにあった。

 会話文というのは、人物の個性や意図を地文での叙情描写を用いずに表現するにはとてもよく役立つ一方で、話し言葉が持つ冗長性のせいで文章が間延びする危険も常にはらんでいる。小説は言語で書かれた音楽のような一面もあるので、リズムや音の響きなどにも気を配らなければならない。地文に比べて話し言葉は使える言葉が少ないため、その音楽的な表現を探すのがより難しくなる。

 また対話体小説まで極端な手法にすると、今度は地文による心情描写の助けを借りられなくなるので、その分台詞の一言ずつを極めて厳密に選ぶ必要が出てきて、時には適切な文句が見つからず台詞一つに一ヶ月以上も悩み続けるような、制作上の物理的な問題も出てきてしまう。会話だけで物語を成立させるというのは、針の穴に糸を通す作業の連続みたいなもので本当に神経を使う。対話体小説は叙事的に心情描写をする為には大変有効な手法だが、問題も沢山孕んでいるということを今回身に沁みてよく学んだ。

 対話体小説というのは戯曲とか脚本みたいなものに近い形式だそうで、正統派の小説からは離れた表現方法でもある。だから本当は、物語を創作する技術を磨くという観点でなら最初はもう少し地文主体の正統派な小説を書いた方が良かったのだと思う。それに何より、まずは数千字から一万字程度の短編を書いた方が良かった。いきなり36万字の長編など書くものではない。これだけは間違いない。

 そもそも最近はアマチュアの物語作者が作品を発表する場所と言えばネット上の小説投稿サイトが主だろうが、そういった所では短編の方がよく読まれ、長編は殆ど読まれることはない。常識的に考えてどこの馬の骨が書いたかも分からない数十万字の長編など読みたくはないだろう。その観点からも、もし読者を得てほどほどにやり甲斐を感じたいのなら、最初のうちは練習に何作か短編を書くのが最も効率が良い創作活動なのではないかと思ったりした。

 

物語の視点の問題

 いきなり長編を書いたというのも反省だが、書き終えてみて何より向こう見ずだったと思うのは、群像劇を主観視点で描写しようとしたことだった。これは完全に、物語を語り手として書くにおいては「ど」が付く素人である自分の能力を見誤った選択だった。これは完全に今の自分に出来ることではなかった。

 物語を語る時には客観視点・主観視点のいずれかを選ぶことになる。客観視点は語り手からの俯瞰的な視点で物語世界を眺め、主観視点は作中人物の視点、時にはその内心にまで潜りながら、その人物の視野から見た物語世界を描写する。

 物語創作の初心者は、基本的には客観視点で書くのが良いと思う。その方が経験の浅い創作者にありがちな作中人物への同一化を避けながら程よく物語と距離を保てるし、地文の練習にもなるだろう。

 主観視点は簡単そうに見えて難しい。その物語が作者の自伝でない限り、作者とは別の人物の視点・思考から見た世界を描写することになる。客観視点での「語り手」という架空の人物は、ある意味作者の分身のようでもあるので、ある程度作者の思考回路をそのまま反映して物語を語っても不自然にならない。しかし主観視点でこれをやってしまうと途端に違和感が出てくる。おっさんみたいな女子大生、大人のような5歳児。日本人みたいなフランス人。口調だけ役割語を使ってそれっぽいことを話す、中身は単なる作者のクローンみたいなナニカが出来上がる。

 まず地文の言葉遣い一つとっても、その作中人物の年齢、性別、人生経験、置かれた環境などから見て、適切な言葉を当てはめていく必要がある。ただ自分がよく使う語彙から単語を引っ張ってしまうと、目の前の情景を説明するのにも、無教養な労働者階級出身の人物が文学部修士課程を出てるような比喩を使いだしたりする。物語の作者は自分の語彙が文学的な表現に偏ってることを常に意識する必要があると思う。文学的表現を追求するために、または娯楽性を高めるために、演出のウソとしてあえてそういう華やかな文章表現をするというならそれでも良いだろうが、自分はどうしても、そうした人物には脚本家に用意された台詞を喋っているだけの物語上の役者(演者)というような印象を受ける。もし凝った地文を書きたいならば、客観視点で書く方が良いと思う。

 単語チョイスの他にも、助詞の使い方、あるいは文章一つ一つの構造なども注意する必要がある。人は言葉を使って思考しているので、そうすると思考回路が文章の中に現れる。同じ思考回路からは同じ型の文章が出力されてくる。これに気付かないまま、今作での自分のように複数の人物間の主観視点を横断しながら、そこに客観視点も加えて(客観視点も視点一人分と考えられるが)物語をいざ作ってみると、まったく文体が差別化出来てないことが露わになる。そうするとただ主観「視点」が違うだけで思考回路は全部同じ人々が語っているようにしか見えない。これでは群像劇の意味もないし、わざわざ主観視点にする意味もなくなる。この修正をするためにかなりの時間をかけた。それでも直しきれたとは言いがたいが、一番初めの頃と比べたら大分マシになったと思う。

 語り手としての技術を上げるためには、まず客観視点で色んなシーンを描写してみて、その中で自分の文章をよく観察して、自分の文体のクセ、ひいては自分の思考のクセみたいなものを把握することが大事だと思う。それには自分の文体だけを眺めていても中々認識し辛いので、自分がある程度詳細に人物像や個性を把握出来ている作中人物の主観視点で書いたものと見比べながら思考回路や文体の違和感などを見つけ出していくのが良いかもしれない。

 自分の場合は初めての一作から、主観視点6人分+語り手としての客観視点1人分で計7つの文体を用意しなければならなかったため、本当に大変だった。こんなことは絶対に初心者がやってはいけない。まずは客観視点。次に主観視点(1人分)。その次は客観視点描写の文体のクセをきちんと把握しながら、徐々に主観視点で色々な文体を作れるようにしていくべきだろうと思う。もっと進んだら、客観視点の中で主観も時折混ぜるようなことをしてみてもいいかもしれない。自分も客観視点の章の中で、理咲という作中人物が出てくる場合に限っては客観視点描写のさなかに、理咲の主観視点に移動して主観描写を語るという手法を使ってみた。(映画で言ったら、カメラが人物にフォーカスインしていくようなイメージでこの視点の移動を使った)この手法はその人物の特殊な時間感覚を表すために使ったが、素人がこれをやると主観と客観の区別が出来なくて混同して書いているように見えなくもないので、基本的にはやらない方が良いとは思う。

連載という形態

 これは自分に限った話だが、自分の場合は次々と作品を作り続けていくタイプではなく、一つの作品を徹底的に磨き上げていくスタイルの様なので、最近の小説投稿サイトなどでよく行われているような連載型の作品発表は全く向いていないことが分かった。あまりにも改稿が多すぎて、完結後の完成稿がライブ進行で読者が読んだものとは別物になってしまう恐れが高い。(そもそも数回読まなければよく理解できないような複雑なプロットであることは一旦置いておき、)文章が変わったので初めからもう一度読み直してくれというのは申し訳ない。連載による作品発表は、出来上がった順から作品を小分けに発表することで、即座に読者からのレスポンスを得ることができやり甲斐が満たされやすい一方で、十分な推敲を経ないまま作品を発表することばかり急いでしまう弊害もある。自分の場合は完全に作品を完成させてから発表する方が向いている様なので、執筆の間モチベーションをどのように維持していくかというのは今後の創作体制における課題だ。

 

  反省は尽きないのでこの辺に。この貴重な経験を次作に生かしたい。

 

 

作者、作品、読者の距離

 この作品を書き上げて、というより、以前より作者として物語を作りながら悩んでいることがある。それは作品と作者、読者の間の関係について。

  と言っても何のことよく分からないと思うがつまるところ、作者は自分が生み出した(完成後の)作品とどの程度距離を保つことが一番作品にとって、そして作品の読者にとって良いことなのかという問題だ。「良いこと」というのがまた厄介ではある。

 今の自分の考えでは、作品は作者の所有物ではないと思っている。どちらかといえば親と子のような関係性で、作品は既に自立した自分の子どものようなもの。公開して発表するのはもちろん作者の役目だが、そのあとに作品を見つけて読むのは読者で、それによって作品が読者と築き上げる新たな関係に作者が介入すべきではないと思う。

 この問題は作品解釈などに顕著に現れてくる。作者は一応、作品に一番詳しいという自負があり、その作品の全てを知っている(と思い込んでいる)。そうすると、読者にどうしても作品の「正しい」解釈みたいなものを教えたくなってしまう(作品が誤解されていると感じたときは特に)。だがこれは一番やってはいけないことだろうと思う。結局のところ、作品解釈というのはその人にとって作品がどう見えているかという認識でしかない。仮に作者の認識が作品の「実像」(そんなものがあるとすれば)に最も近いとしても、それが読者にとって価値を持つかはまた別の話だ。読者にとっては作品を正確に理解することよりも、物語の中に自分なりの意味を見出して、作品と関係を築き上げることにこそ人生の中でその作品と出会った意義が生まれるのではないかと思う。それは文学の世界のテクスト論とかそういうものに照らしたら誤ったとまでは言わないまでも、かなり低次元な作品鑑賞の姿勢なのかもしれない。作品に自分の人生体験を投影し、作品を勘違いしたままに好きになることであるからだ。しかし色々と読んだりしながら自分でも改めて考えてみて、やはり読者にとっては、正しい作品解釈などよりも、例えそれが勘違いであっても読者の心の救いになったり癒やしになったりした方が本当に価値を持ったと言えるんじゃないかと思う。

 そんな風に考えると、作者が読者に作品解釈を押し付けるべきでないのは勿論、作者も作品が読者と良い関係を築けるように努力するべきだと思う。それには色々なやり方があるだろうが何にせよ、やはり一定の距離は置くべきだろう。作者も所詮は人間だ。欲もあれば、失敗もする。作品と作者は分けて考えるべきだとはよく言うが、理屈では分かっていても人の脳はそんなに器用に出来てはいない。であるならば、作者は子の親として恥じることのない振る舞いをするべきなのだろう。これは完全な私見なので他の人に強制するものではないが、少なくとも自分はこれからそうしていきたい、そうしていかなければならないと思う。

 

 

創作の恍惚と不安 

 上の方で創作なんて何が楽しいのか、みたいなことを書いたりしたが、実際、物語創作には麻薬的な快感があると思う。その快楽は、別世界へ自分をトリップさせるという体験の楽しさの他にも、困難でやり甲斐のある作業に挑戦している時の心地よい緊張、創造的行為を通して自分が何か価値を生み出している(と感じる)ことへの喜びとか、そういう様々な要素の複雑な混合物なのだろうと思う。

 創作行為はある種麻薬的な、アルコールのような作用を創作者にもたらし、それによって創作する人は恍惚と不安を行ったり来たりする。見出しでも書いた「恍惚と不安」というのは昔、宮崎駿氏のインタビュー映像で聞いた言葉だ。元々はフランスのヴェルレーヌという詩人の詩から来ているらしいが、そのインタビューの中で宮崎駿はアニメーターを目指す若者に対して、自分の才能を見極めることが大切だという文脈の中で、「何かを作ることは恍惚と不安の繰り返しだ」と語っていた。これは自分でも実際に創作をしてみて、実感として本当に身に沁みて感じたことでもある。

 「恍惚と不安」は、「酔いとシラフ(素面)」と言い換えても良いかもしれない。物語創作は、創作者を酔わせる。酔っているからこそ新しいものを創作できるのかもしれない。その酔ってる期間というのは本当に楽しくて、自分が新しいものを生み出しているという喜びと、生み出したものの美しさにうっとりと「恍惚」するわけである。しかしいつか酔いは覚める。時が経ち(それは翌朝かもしれないし、翌年かもしれないが)、シラフに戻って改めて自分の生み出したものを眺めた時、創作者はその不出来に愕然として途端に自信喪失して「不安」に陥る。

 しかしまた創作に打ち込んでいるうちに酔いが回ってきて作者は恍惚に浸るのだが、詰まるところ創作というのは延々とこの繰り返しなのではないかと思う。そしてこの繰り返しこそが、作品を磨き上げていくのではないかと。

 作者には、酔っている時期もシラフの時期も両方が必要ではないかと思う。酔っている時期には創造的に次々新しいものを生み出し、自分の心を開いて奥深くまで潜っていく。しかしその時期は少なからず冷静さを欠き、視野が狭くなって自己に過大評価気味になる。一方でシラフに戻っている時期には、酔っている時ほどの創造性は無いし、自信を失ってやたらと卑屈になったりするが、代わりに全体に注意を行き渡らせる客観性を取り戻している、それ故に作品の粗を見つけて形を整えることが出来る。この二つの時期が交互に繰り返されることで、作品は少しずつ完成度を上げながら出来上がっていくのではないか、実際に作っていて、そのような過程を経て自分の作品は出来ていった気がしている。今こうして書きながら、ひたすら加熱と冷却を繰り返す鍛冶のようだと少し思ったりした。

 この酔っている時の自分とシラフの時の自分では、まるで別人かのように物の見え方が違う。創作にはこの二人の異なる自分を上手に利用することが大事なのではと思う。小説を書くというのは、まずもって一人での孤独な作業となり、客観性を維持するというのが特に難しい。だから自分の中に「創造的な酔っ払い」と「シラフの編集者」の二人を飼って、その二人で共同作業で物語を作っていくことで、それが第三者の鑑賞にも堪えうるような美しい作品に仕上がっていくのでは。

 そこで一つ、酔いとシラフの「期間」が問題になってくる。酔いとシラフはつまるところ作者の精神状態の話で、これは意識的に変えようと思って切り替えられるものじゃない。自然と切り替わってしまうものだ。その期間もまちまちだ。ずっと酔っていたかと思えばある日突然シラフに戻ってしまったりする。そうすると今度は延々シラフのままで、中々酔えなくなってしまったりする。そんな期間は特に辛い。けれど、その間も物語と向き合い続けていれば、いつかまた酔いの時期に切り替わる日が必ず来る。そしたら続きを書き始めればいい。そのようにして気まぐれに二つの時期はやって来るが、季節のようにいつか必ず交代する時が来るのも確かだ。

 そうするとやはり創作という活動には、ある程度の時間と、「待つ」という意識が必要なんだろうと思う。作品の完成に期限があったりする場合は中々そうも言ってられないかもしれないが(だから私は商業作家というのはやりたくないなと思うのだが)、自分は今回の創作を通して、酔いの自分とシラフの自分を上手く利用しながら、たっぷりと時間をかけて作品を磨き上げ、熟成させていくことの大切さを学んだ。これからも寿命の続く限りそんな風にじっくりと作っていけたらいい。

 

今後の抱負

 実は書き始めた頃から、そして書きながらいつも、この作品を書き上げたら筆を折ろうと思っていた。恐らく自分は物語を作るというより物語世界そのものを作ることが好きなのであって、数千字の短編は情感のスケッチのようで作品として作るにはどうにも物足りない。かといって満足するレベルの長編になると、軽く数年単位の時間が必要になってくる。そんなことを繰り返していたらあっという間に死んでしまう。こんなこといつまでもやってられない、いい加減にこれを完成させたら空想の世界には見切りを付けて、現実を生きようと思っていた。宮崎駿が一作完成するたびに引退すると言ってみんな笑うが、おこがましくもその気持ちは少し分かる気がする。

 ただいざ書き終えてみて、今の自分はどうかというと、以前にはなかった「欲」のようなものが出てきた。物語を創作するという行為に対する欲だ。まだまだ物足りない、もっとこの先に進んでみたいと思うようになった。そんなわけで、今は長生きしたい。「アルスロンガ、ウィータブレウィス(芸術は長く、人生は短い)」なんて言うけれど、本当にそうだと思う。あと何年生きられるか、その間にあと何作生み出せるか。少なくとも最初の目標は達成できたので、これからはボーナスタイムみたいなものだ。今の自分の中に渦巻く創作への欲に従って、それがある内はこれからも「物語を作る」という営みを続けていきたい。

 今は運良く自分の中に何も物語がない。全てあるものを出し終えて、空っぽの状態だ。だからこの幸運な時期を最大限に活用して、沢山読書をしたり勉強したり、色んな経験を積みながら、世界のインプットに励みたいと思う。いつの日かまた、新しい物語が自分の中に流れてくるその日まで。